ひとりで生きていくだけの勇気がない
2003年3月20日ときどき、正気になる。まともに考えられる。
どうするのが一番いいのか、わかっている
一日 伸ばした
居場所が みつからない
居場所を みつけられない
それだけ ひっかかっている いま
気持ちの整理はついている
あとは書くだけ
でも かけない まだ
自分で 居場所を 作ればいいんだろうな。
ひとりで いきていく 勇気が まだ ない
人生設計を考える。
流れに身をまかしていては 人の意見に振り回されてしまう
かといって 紡ぎだす力は いまだなく
ただ頭で考えるだけで精一杯。
流れに身を任せれば、楽に生きていける いまだけ
でも そうすると 近い将来、もっとつらいことが起きる。
目指しながら、そういう道へ進むのはどうだろうか?
日常生活も送れて、受験勉強も出来て一石二鳥かも。
人の心を傷つけることになるけど
そういう道もある。
将来のことまで考えると、
都会に出たほうが、自己向上のためにはいい
将来的に どちらに転んでも 楽しく暮らしていけるだろう。
受験のことを考えると、、
どこにいても勉強はできる
精神の安定を考えると
はなれた場合、不調をきたすことになるだろう。
年齢的なものもあり、いま動かないと
手からこぼれおちてしまうもの が 多い
普通に就職を考えるなら
もう就職先を決めなければ、ならない。
これから先、生きていくための糧をえる手段を得なければいけない。
問題が ひとつ
≪ 生きていようと思わない ≫
生に対する執着心が いまひとつ 私には 薄い。
そこが問題だ
生きてやるぞー という 意気込みが
私には ほとんどない
昔から 死にたかった。
いろいろ調べた結果、小さいころから
じゃまっ気にされて育っていたみたいだ。
色々質問するし、いたずらも半端じゃなかったし(笑
周りは随分、手を焼いていたみたいだ(苦笑
生い立ちから考えて、現在にいたるまで。
その中で「自分は必要とされない人間なんだ」と認識して行ったように思う。
私は覚えていないくらい小さい頃から、本が好きだった。周りの大人がぜんぜんかまってくれないので、いつでもどんなときでも一人で楽しめる本を読み始めたのだろう。静かなので大人に怒られることもなく楽しめた。疑問も解けたし、知識も得られた。そして違う世界にも行けた。
元来、人に気を使う人間である。
それは、周りから捨てられまいとするあまり、身につけたものなのだろう(遺伝要素も少しある)。
それは、ちょっと病的なくらいだ(笑
『 見捨てられ不安 』 『依存症』
どうも この二つが大きく作用しているらしい。
今回のダンナの件で、極限まで追い詰められて、それが発覚したのだろう。
もともと持っていた弱さが一気に出たんだ。
それまで意識下で存在していたものが明るみにでた。
ただ、それだけのこと。
≪ 愛されていない ≫
それを自覚しただけのこと。
≪ 愛される資格もなく ≫
人の欲求に従って生きてきた私は
自分の意思を持たなかったということ。
自分の意思を持とうとしたときには
強い反対にあい続け、
『どうして自分の好きなようにしてはいけないのだろう?』と思いつつ、従っていたこと。
その中には、自分の意見が盛り込まれることもあったが、過分に自分の意志以外が含まれていた。
人に嫌われたくなかっただけなのだと思う。
いい子でいたかった。
人に好かれたかった。
だから、人の欲求には全て答えるようにしてきた。
そうして出来上がったのが いまのダンナ。
要求だけして、私の意見になど 耳1つ貸さず 好き放題に 遊び回るダンナ。
自分の要求が通って当たり前、反論などもっての他! になったダンナ。
もともとワガママだったところに
私の甘やかしがあり、ダンナの自己優越感とプライドは、限りなく自己増殖していった。
職場でも、私にしてもらっていることが当たり前だという認識があるので、
同僚にもそれを押し付けているらしいダンナ。可哀そうなダンナ。
どっちもどっちなんだと思う。
人を際限なく受け入れてしまう私と、
人に際限なく要求してしまうダンナと。
組み合わせが悪かったのだろう。
結婚には向いてないのかもしれない。
間違った組み合わせだったのだ。
私はダンナの一挙手一頭即足に怯え、精神に異常をきたし
ダンナは自分のワガママが受け入れられて当然、人が自分に従って当然との見解を強化した。
どちらも不幸なだけだ。
最初から間違っていたのだ。直感は正しかったのだ。
断ったダンナは正しかった。
無理強いした私が悪かったのだ。
あの時点で、縁を断っておけば
また違った人生になっていただろう。
少なくとも、私は 自立 して 一人で 生きていた。
好きな職業につき、自分のやりたかったことをやり、
自分の世界を作り上げていった。
いま、それができるか?と、問われれば
「少しおそかったかも」と苦笑にして答えるに違いない。
理想とする人生を遅れていただろうことは間違いない。
苦しんだかもしれないが、楽しいこともある人生だったに違いない。
ダンナと結婚して、楽しいことも楽しい時も ひとつもない人生を15年以上送っている。
そこからは、何も得るものはない。ただ苦しかっただけ。
その苦しみから逃れられるのが いま なんだろう
また間違った選択さえ、しなければ
***
いま は 人に 甘えて生きている
毎晩、止めてもらっている
私に何も要求せず
ただ 当たり前に 受け止めてくれる 人に 初めて 出会った
気を使わずにいても いいことが こんなに楽なものだなんて 思わなかった
相手は はなれかけているが(苦笑
まぁ、こんな私なのだから、しょうがない(大苦笑
私が元気になったら、手離す気でいたのだろうから。
優しい人だ。
その人を苦しませることになるのだろう、これから
ダンナのもとに戻る行為は、ある意味 私にとって自殺行為に等しい。
ストレスの元のもとにいくのだから。
少しは良くなっているとはいえ、いまだ傷が癒えたわけではなく
たった一言、たった一動作で、衝動的に 実行してしまうだろう。
とめるものも とめる理由もないから
自由に 好きに してもいいんだ
迷惑をかけることになっても、それはダンナが自ら招いた錆。
責任をとってもらおうではないか
実行できるかどうか わからない
実行するかどうかも わからない
どうなるかも わからない
そういう可能性があることを自覚 したまま
ダンナのもとへいく
こんどは 逃げ道はない
覚悟の上でいかなければいけない
退路を断つことになっても、それは自分の責任だ。
どうするのが一番いいのか、わかっている
一日 伸ばした
居場所が みつからない
居場所を みつけられない
それだけ ひっかかっている いま
気持ちの整理はついている
あとは書くだけ
でも かけない まだ
自分で 居場所を 作ればいいんだろうな。
ひとりで いきていく 勇気が まだ ない
人生設計を考える。
流れに身をまかしていては 人の意見に振り回されてしまう
かといって 紡ぎだす力は いまだなく
ただ頭で考えるだけで精一杯。
流れに身を任せれば、楽に生きていける いまだけ
でも そうすると 近い将来、もっとつらいことが起きる。
目指しながら、そういう道へ進むのはどうだろうか?
日常生活も送れて、受験勉強も出来て一石二鳥かも。
人の心を傷つけることになるけど
そういう道もある。
将来のことまで考えると、
都会に出たほうが、自己向上のためにはいい
将来的に どちらに転んでも 楽しく暮らしていけるだろう。
受験のことを考えると、、
どこにいても勉強はできる
精神の安定を考えると
はなれた場合、不調をきたすことになるだろう。
年齢的なものもあり、いま動かないと
手からこぼれおちてしまうもの が 多い
普通に就職を考えるなら
もう就職先を決めなければ、ならない。
これから先、生きていくための糧をえる手段を得なければいけない。
問題が ひとつ
≪ 生きていようと思わない ≫
生に対する執着心が いまひとつ 私には 薄い。
そこが問題だ
生きてやるぞー という 意気込みが
私には ほとんどない
昔から 死にたかった。
いろいろ調べた結果、小さいころから
じゃまっ気にされて育っていたみたいだ。
色々質問するし、いたずらも半端じゃなかったし(笑
周りは随分、手を焼いていたみたいだ(苦笑
生い立ちから考えて、現在にいたるまで。
その中で「自分は必要とされない人間なんだ」と認識して行ったように思う。
私は覚えていないくらい小さい頃から、本が好きだった。周りの大人がぜんぜんかまってくれないので、いつでもどんなときでも一人で楽しめる本を読み始めたのだろう。静かなので大人に怒られることもなく楽しめた。疑問も解けたし、知識も得られた。そして違う世界にも行けた。
元来、人に気を使う人間である。
それは、周りから捨てられまいとするあまり、身につけたものなのだろう(遺伝要素も少しある)。
それは、ちょっと病的なくらいだ(笑
『 見捨てられ不安 』 『依存症』
どうも この二つが大きく作用しているらしい。
今回のダンナの件で、極限まで追い詰められて、それが発覚したのだろう。
もともと持っていた弱さが一気に出たんだ。
それまで意識下で存在していたものが明るみにでた。
ただ、それだけのこと。
≪ 愛されていない ≫
それを自覚しただけのこと。
≪ 愛される資格もなく ≫
人の欲求に従って生きてきた私は
自分の意思を持たなかったということ。
自分の意思を持とうとしたときには
強い反対にあい続け、
『どうして自分の好きなようにしてはいけないのだろう?』と思いつつ、従っていたこと。
その中には、自分の意見が盛り込まれることもあったが、過分に自分の意志以外が含まれていた。
人に嫌われたくなかっただけなのだと思う。
いい子でいたかった。
人に好かれたかった。
だから、人の欲求には全て答えるようにしてきた。
そうして出来上がったのが いまのダンナ。
要求だけして、私の意見になど 耳1つ貸さず 好き放題に 遊び回るダンナ。
自分の要求が通って当たり前、反論などもっての他! になったダンナ。
もともとワガママだったところに
私の甘やかしがあり、ダンナの自己優越感とプライドは、限りなく自己増殖していった。
職場でも、私にしてもらっていることが当たり前だという認識があるので、
同僚にもそれを押し付けているらしいダンナ。可哀そうなダンナ。
どっちもどっちなんだと思う。
人を際限なく受け入れてしまう私と、
人に際限なく要求してしまうダンナと。
組み合わせが悪かったのだろう。
結婚には向いてないのかもしれない。
間違った組み合わせだったのだ。
私はダンナの一挙手一頭即足に怯え、精神に異常をきたし
ダンナは自分のワガママが受け入れられて当然、人が自分に従って当然との見解を強化した。
どちらも不幸なだけだ。
最初から間違っていたのだ。直感は正しかったのだ。
断ったダンナは正しかった。
無理強いした私が悪かったのだ。
あの時点で、縁を断っておけば
また違った人生になっていただろう。
少なくとも、私は 自立 して 一人で 生きていた。
好きな職業につき、自分のやりたかったことをやり、
自分の世界を作り上げていった。
いま、それができるか?と、問われれば
「少しおそかったかも」と苦笑にして答えるに違いない。
理想とする人生を遅れていただろうことは間違いない。
苦しんだかもしれないが、楽しいこともある人生だったに違いない。
ダンナと結婚して、楽しいことも楽しい時も ひとつもない人生を15年以上送っている。
そこからは、何も得るものはない。ただ苦しかっただけ。
その苦しみから逃れられるのが いま なんだろう
また間違った選択さえ、しなければ
***
いま は 人に 甘えて生きている
毎晩、止めてもらっている
私に何も要求せず
ただ 当たり前に 受け止めてくれる 人に 初めて 出会った
気を使わずにいても いいことが こんなに楽なものだなんて 思わなかった
相手は はなれかけているが(苦笑
まぁ、こんな私なのだから、しょうがない(大苦笑
私が元気になったら、手離す気でいたのだろうから。
優しい人だ。
その人を苦しませることになるのだろう、これから
ダンナのもとに戻る行為は、ある意味 私にとって自殺行為に等しい。
ストレスの元のもとにいくのだから。
少しは良くなっているとはいえ、いまだ傷が癒えたわけではなく
たった一言、たった一動作で、衝動的に 実行してしまうだろう。
とめるものも とめる理由もないから
自由に 好きに してもいいんだ
迷惑をかけることになっても、それはダンナが自ら招いた錆。
責任をとってもらおうではないか
実行できるかどうか わからない
実行するかどうかも わからない
どうなるかも わからない
そういう可能性があることを自覚 したまま
ダンナのもとへいく
こんどは 逃げ道はない
覚悟の上でいかなければいけない
退路を断つことになっても、それは自分の責任だ。
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