依存は、自分に自信がない人が陥る罠である。
依存症は、その最たるものである。

依存症には、依存する人と依存させてしまう人がいる。

その両者が依存に気づき、依存について戦う気持ちを持てないと
依存と戦うことは困難だ。

依存する人も依存させる人も、自分に自信のない人だ。
「自分」という存在を否定され続けてきた人だ。
「自分」を認めてもらった、という実感のない人だ。

いつも相手に理不尽な要求をされ、
それに適切に応えないと憤慨され批難されてきた人たちだ。

それにより自信を失い、自尊心を失っていく。

「どんなあなたでも愛している。とても大切だよ。」

そういうことをいってもらったことのない人だ。

損得勘定なんて抜きに
心の底から愛された記憶のない人たちだ。
自分の全てを肯定されたことのない人たちだ。

それによって傷つき、
癒してくれる相手もなく、ただひたすら自分という存在を認めてくれる相手を求め続けている人たちだ。

依存する人は、依存対象に対し、自分への承認を求めている。
認めてもらいたいのだ。つらい気持ちを紛らわしたいのだ。ほんの一瞬でもいいから、安心を得たいのだ。
それが依存へとつながっていく。

依存させてしまう人は、自分が必要とされることで、認めてもらいたいという気持ちを昇華させている。
自分がどんなにひどい目にあっても、自分が必要とされることの方が大事なのだ。
相手に甘えさせることで、自分の存在価値を確認しているのだ。
それが依存させてしまう人の生きる意味につながっている。
命を賭けて、依存させているのだ。

依存は、する者もさせる者も同じ心の痛みを抱えている。

依存させない、しない のが治療方法だ。

しかし

いままでの習慣を断ち切り、それを実行にうつせる者は少ない。

依存しているほうが、依存させているほうが、楽なのだ。
いままでの自分を変えなくてもいいから、楽なのだ。

依存を断ち切るということは、
価値観や生き方、考え方を根底から変えることになる。
それを受け入れ、理解し、実行にうつすのは、難しいことなのだ。

依存させる者だけが、それを実行にうつしても
依存している者のものすごい反撃に会う。

依存している者は
傍若無人に命令でき、
奴隷のように扱える相手を失いたいとは思わないのだ。
その主従関係を変えたいとは思わないのだ。
そのため、いつもより激しい反撃に出る。

ここで齟齬が生じる。

依存する者と 依存させる者の意識の変化の違い。
これが、より激しい修羅場を生む。

・・・これにより、関係の改革を試みる計画が失敗するものも多い。
あきらめて、より一層ひどくなった依存に耐え続けるか
                   そこから逃げるか     である。

DVは逃げるしか解決方法がない
依存は治らない         といわれる由縁である。

依存症もDVも完治するということはない。

しかし、治ることはある。
依存やDVを、自分の意志で継続的に抑えられるようになることが 治る と一般的には使われている。

成功するものは多くない。
途中で挫折するものも少なくない。
取り組むところまでいくものは少ない。



「依存を断ち切ること」



依存を断ち切れなければ、人格異常を起こす可能性が高い。

それでも仮面をかぶり、普通に見えるように生きていける人もいる。

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