あとちょっとで

2014年11月20日 病気
先日、仕事に行った。
ストレスから、身体に変調をきたし、現在やばい状態。
「○○○くれ。と、いうか○○」と、常日頃から言われていたから
「現在、これこれの状態。このまま治療しなければ、近いうちに確実に○○」と告げてみた。
常日頃、「○○○くれ。と、いうか○○」と、延々言っていた相手は、
私がどんどん動けなくなり、立ち上がれなくなり、寝込み始めたのをみて
「大丈夫?病院行く?」と聞いてきた。
「いや、行かない。このまま放っておけば、これこれの状態になって、確実に○○するから、放っておけ。○んで欲しかったんでしょ?思ったとおりになるよ。よかったね。」と言ったら、「見えるところで○○な」と言ったので、「わかったー」と言って、放浪の準備をし始めたら、さらに怒ってきた。「なんで?○○で欲しかったんでしょ?思い通りになるんだよ?なんで怒るの?」と聞くと「本心じゃない。お前があんまり生意気だから、やり返すためにそういってた」と半泣きで反論してきた。「本心じゃないなら、そういうこと言うな。私は、本気で言ってると思ってた。だって何度も何度も繰り返し言ってたジャン。何ヶ月もそういってたよね?薬も注文してくれなかった。ネットでしか注文できないのに、注文してくれなかったよね?(私はネットで買い物できません。)それで、もうずいぶん症状が悪くなってたし、日常生活に支障が出てた。それでも「○○。○○でくれ。」「そんな薬買う義務はない。ないなら飲まなければいい。はやく○○。」って言ってたよね?なんでいまさらそういうこと言うの?望み通りに○○のに、なんで怒るの?」
私には本当に理解できなかった。だって何度も何度もしつこく言われたから。
その薬がないと、マジで、「将来的に命に関わる」って、医者にもしこたま脅されて怒られていたし、それもちゃんと伝えているのに、薬を注文してくれないから「あぁ、本当に○○して欲しいんだなァ。ようやく相手の願いが叶うよ、嬉しいなァ。これで相手は喜んでくれるかなァ」って思ってた。

もう、本気でヤバくて、意識なくして倒れたら即病院行きで、そのまま入院は確実、つて状態になって、相手が薬をネットで注文してくれた。

でも、もう遅くて、とうとう職場で「ぶちッ」て、音がして、今までと違う状態になった。
平たく言うと、血の色が、暗黒色から鮮血に変わった。
手が震えて痺れてきた。頭の血管がドクドクと脈を打ってるし、ゴォゴォと音がする。
立っていられないし、眩暈が酷い。平衡感覚が失われていくのがわかる。
痺れは手足に広がり、よろよろとしか歩けない。どこかにつかまっていないと立っていられない。
思考は朦朧とし始め、何かを考えたりしたりするのが、とても億劫になった。

「あぁ、とうとうキタか」私は、そう思った。このまま放置すれば、近いうちに○○○しまうだろう。

職場で○○たくなかった。
自分をイジメている奴らに、弱っているところなど見せたくなかった。
気力を振り絞り、早退した。

その日から、職場には行ってない。ずっと休んでいる。

さすがに病院に連れて行かれた。
血液検査をする。原因がわかりきっているので、即、薬を出してもらえた。
飲用限界量を摂取する。

具合が悪い。手足は痺れているし、身体は思うように動かせない。
思考がハッキリしないし、吐き気が酷い。薬の副作用だけではない。
お腹が空いているのに、吐き気がする。食べて吐く。食物の摂取が難しい。

二週間が経ち、ちょっとだけ楽になる。血は相変わらず鮮血のまま。

すでに10ヶ月近く出血し続けている。

先月、2日ほど出血が止まったが、またすぐ出血した。
今月は、出血が止まって3日経った。

薬を飲むのを止めたり、無理をすれば、すぐに○○でしまうだろう。

いまはただ、安静にしている。
時々、薬を飲み忘れてしまうけど、即、症状が出るので、飲まざるを得ない。
最後に書いた日付を確認したら、2007年!
えーと、いまは2012年だから…5年近く日記を書いていなかったみたいです(汗)

5年かぁ。。。

実は、つい先日、ニッカウヰスキーから小包が届きました。
この小包、私が作ったウヰスキーなんです。10年前に。
(まぁ、作ったと言っても、製造段階で樽詰めを手伝っただけなんですがw)

当時、離婚で苦しくて苦しくて、どうしようもなくて…
「それって、どのくらい? どのくらい経てば、苦しくなくなるの?」
「離婚して、1年以上経ったけど、まだ苦しいよ? いつ楽になるの?」
耐えても耐えても、苦しさは変わらなくて…

そこで、当時、まだ始まったばかりの「ニッカマイウヰスキーづくり」に参加しました。
マイウヰスキーが出来るのは、仕込みから10年後。

10年経てば、「すこしは忘れることができているかもしれない」と思ったんです。

で、その10年後が来て、マイウヰスキーが届いた訳です。



で、10年経った訳だ。うん。



で、現在、どうなったかというと…



苦しいのは、いまも変わりません(苦笑)
だがしかし !
そのことについて考える時間が少なくなりました。
それで、 生きているのがつらいと感じる時間  が少しですが、減りました。


実際は、マイウヰスキーを作った後も、2年ほど苦しかった。
ほとんどまともに生活できていませんでした。
いま振り返っても、よく無事だったなぁ、よく生きていたなぁ、と思います。
覚悟を決めれなくて、死にきれなくて、
助けて欲しくて、いろんな人に迷惑を掛けて…
でも関わってくれる相手に対し、過剰に依存してしまうので
相手に迷惑掛けたくなくて、人との関わりをほとんど断って…
最後の方は、ほとんど人との関わりを断っていました。
自分から連絡することもしなくなりました。

もうほとんど、行方不明のレベルで、ひっそりと存在していました。

私は、ここ10年のことを、ぼんやりとしか覚えていません。
いまだに、日付や曜日の感覚がありません。季節もよくわかりません。
現在も、行方不明とほぼ同様の生活です。


10年経っても、「つらいもんはつらい」です。ハッキリいってf^_^;
それでも、いまは、過去の想いだけに囚われることは、少なくなりました。


とりあえず、生きてます。

心配かけてしまってごめんなさい。
「悲しみや苦しみは、時間によって癒されるのか?」と言う問いは
「どんなに時間が経っても癒されない。」ということがわかりました。

時間は、悲しみや苦しみを癒してくれません。
どれだけ経っても、悲しみも苦しみも、時間だけでは癒されません。

悲しみや苦しみは、なくなりません。

悲しみや苦しみから逃れるには、それを考えないようにするしか方法がありません。
脳に出来てしまった「悲しみ」や「苦しみ」の神経回路を、弱め、細くすることでしか
それらからは逃れられません。

太く強くなってしまった神経回路を弱めるためには、
「悲しみ」や「苦しみ」について考えないようにすることでしか弱まりません。

それに加えて、自動思考を止める訓練を積まなくてはいけません。
Aならば、Bになる という思考を
Aであるならば、Bに必ずなるわけではない。CやDやEになることもある
という思考に変える訓練です。


また、私は、DVを受けていたため、自分の心を守るために、
自己防衛機能が働き、感情がいっさい失われてしまいました。
少しでも感情を取り戻すために、いろんなものに触れました。
美術とか芸術とか自然とか、その当時、触れられるものになるべく触れるようにしました。


変な思い込みも発生しました。
それは、あからさまにどう考えても変なので、
その考えが頭の中に浮かんでも、「こいつはおかしいぜ?」とわかるのですが
DVで認知機能が壊れているため、脳が誤作動します。
これについては、
「そんなことあるわけない。だから、そんなことはおきない。だから大丈夫」
と、発生のたび、自分に言い聞かせてました。
…それでも、恐怖におののくのですがね…


DVを受けると、自己防衛のため、脳の認知機能がおかしくなります。
これを治すのは、至難の業でした。


当時、精神病や心の病の垣根があいまいで
資料も研究結果も、ほとんど端的なものしかありませんでした。
来る日も来る日も図書館を巡り、役に立ちそうな知識を求めて探し回りました。
DVの後遺症が酷く、漫画すら読めなくなっていましたので
本を読む のは並大抵の苦労ではありませんでした。


DVでは、
考える力 判断する力 実行する力 等々、
「自分で判断し行動する」ことができなくなり、生きているサンドバック状態になります。
また、「なにが正しいのか」善悪の判断、行動の良い悪いがわからなくなります。
すべての基準が、「加害者にとって都合が良いもの」に書き換えられてしまいます。
ほとんど洗脳に近いです。
その状態で10年、復帰・復活は、通常の場合では望めないと言われました。

他人には、自己があります。信念があります。
それを無理やり「加害者にとって都合が良いもの」に合わせるには
自我を抑え、考える力も感情も何もかも失くさないと、合わせられません。

そうして、感情を失い、間違った認識でしか物事を判断できなくなっていくのです。

私の場合、この世から消えてしまった方が、自分の心がすごく楽になったと思います。

悲しみ や 苦しみ は、どんなに時間が経ってもなくなりません。
対症療法で、薄めることはできても、忘れることはできません。

考え方の癖を治すことで、心を楽にすることはできます。

diarynote 制作担当者 日記より転記(覚え書)


よくあるご質問
2008年9月17日 コミュニティ


◆ テーマ
- テーマの変更の仕方が分かりません

http://webmaster.diarynote.jp/?theme_id=4


----------------------------------------------------------

「追記」

あしあと機能について

恋愛

2007年12月4日 恋愛
10代〜どんな人が自分と相性がいいのか、確認する時期
    「楽しければいい」恋愛
    ※ 優しくする、相手との価値観の違いを理解する、
      思いやる気持ちを学ぶ

20代〜相手とどんな関係を築くか、学ぶ時期
    「一緒に過ごすとは、どういうことか」学ぶ恋愛
    ※ 人生・生活に必要なものを学ぶ。
    ※ 自由な生活を学ぶ
      2人で暮らすことによって
          失われるものと得られるものを学ぶ
    ※ 愛情だけでは、生活できない。
      生活力として、
     「経済力・家事能力・お互いに協力する能力」
                 が必要なことを学ぶ

30代〜どんな相手とだったら幸せな人生がおくれるか、
                     学ぶ時期
    「価値観が合い、相性の良い人と付き合う」          ※ 「ほっとする」相手を選ぶ
    ※ 世間や一般常識に惑わされない
    ※ 真に必要なものを理解する

「恋愛」って、人生を大きく左右しますよね。
選択肢によっては、予定が大きくかわってしまったり
妥協したことで、後々の人生に悔いが残ったり
選んだ人によって、暮らしが良いものになったりそうでなくなってしまったり

恋愛→結婚→生活→人生 につながっていると思うんです。
だから、おろそかにはできない。

結婚って、理性や感情でするものではないと思います。
直感でするものだと思います。…検証は必要ですが。
不安要素を取り払って取り払って、
それでも「一緒にいたい」と思えたら、「結婚」すべきだと思うんです。
親兄弟世間一般常識…etc、そんなものくそくらえ!と思える相手に出会えたら
なんでだかわかんないけど、「この人と一緒にいたい」気持ちになれる人に出会えたら
それが一生涯の伴侶なんだと思います。

一生涯の伴侶に出会うのは、難しいです。
理性や打算や計算で、結婚しても上手くいきません。
誰かに水をさされたり、世間や一般常識で判断して気持ちが萎えてしまうものなら
その結婚はしないほうがいいです。

結婚は理論でできているものではないし
誰かの言で、気持ちがぐらつくようなら
結婚相手を無条件で愛していることにはなりません。

無条件で愛せない相手との結婚は、悲惨です。
お互いにとって良い関係をもたらしません。

「無条件で愛せない」「相手にどうしても許せないところがある」「相手の○○がどうしても受容できない」のは、仕方がないことです。
自分と相手の間で、価値観の相違があり、お互いに受容できる許容範囲を超えているからです。
そういう場合、意見を衝突させて、お互いの価値観や許容範囲を何度も確認しあうことにより、少しずつ距離を縮めていくのが良いでしょう。

相手に何もかも望んでも、それは無理というものです。叶いません。
何もかも自分の思い通りになることはありません。
できるのは、話合いを重ねて、お互いの考え方の距離を縮めることだけ。
それはどんなカップルにも必然であり、結婚していようがいまいが、
どのような人間関係においても必要なことです。

人と人が付き合っていくのは、難しいです。
意見が合わないこともあるし、タイミングが合わないこともある。
言葉が足りなかったり、我慢がたりなかったりすることもある。
お互いに理解しようとしたり、相手の気持ちを尊重したりできないときもある。
そういう時は、少し距離をおいてみましょう。ほんの少しでいいです。
半日くらいでもいい。自分の気持ちが落ち着いてから、もう一度Tryしてみましょう。
きっと良い結果が生まれます。

急ぐことはありません。
大事な相手であればこそ、ゆっくり時間をかけて関係を育んでいきましょう。

久しぶり

2007年10月31日
とりあえず、ログイン。生存報告。

視点転換

2006年8月18日
何故か?を考え続けてきて、一つの答えが出た。

いつまでも執着して、泣き言を言って、

相手を喜ばせるのは辞めよう。

相手のために、そうし続けているよりも、

自分のために、考え方を変えた方がいい。

 嘆 く  >  可哀そうな人

だと、思った方がいい。

実際、そのとおりだし。

相手が、自分のせいでいつまでも苦しんでいる方が、喜ぶ人であるし。

相手が、気持ちよく人生を過ごす手伝いなんて、もうしなくてもいい。

相手が、ハンカチの端っこを噛んで、悔しがる様子を想像した方が、いい。

相手を、愉快にして 楽しませる努力なんて、もう、しなくていいんだ。

苦しむより、考えを変えてしまおう。

花火

2006年7月29日
きれいなものを きれいといえるしあわせ。
美しいものを 美しいといえるしあわせ。

自分の気持ちを正直に口に出せるというのはすばらしい。

快・不快

2006年6月6日
人生の選択はそれに尽きる。


目先のこと
変だな、と感じること
自分の意見<他人の意見 
イヤだな、と感じること
違和感  を感じるもの    選択として間違っている。

なんか心地よい
野暮ったいけど懐かしい
なんか馴染む         選択として正しい。

縁がある、ない、はある。
無理をして、自分の勘に逆らって
他人の言葉に惑わされると
人生の選択を間違える。

なにかわからないが 違和感を感じるものとは 結局のところ、縁がない。
不思議と馴染み、ひかれるものとは、縁がある。
そこんとこの感覚の判断を間違わないように

目が曇るのは、目先のことにとらわれている時。
すぐにお金が必要 
きれいだけど、なんか違うと感じること
欲しいものがある時
流行だけど…って時 
 迫られているものがある時
自分の心と気持ちにうそをついているとき
自分をいつわっているとき
人の言葉に影響されているとき
自分の勘に気づかないふりをしているとき

もっと 自分 を 信じて も いい


感覚を磨く
・・・牛乳はあまった訳ではない!
あまらせられているのだ!

・・・と、いう事実に気が付いている御仁はどれだけいるのだろうか?

ハッキリ言おう。
政府の言いなりになったツケがここになって出てきているのだ。
現状を認識しない関係者によって、
計画された酪農経営計画によって、
酪農家は、飼育環境対策費の大幅投入を余儀なくされ、
経営の大型化と牛乳の増産を、せざるを得ない状況におかれた。

現場を知らない人間による
責任感のないずさんな計画の結果がコレだ。

牛乳は確かに飲み物の1つである。
しかし、
それを生産しているのは牛である。
『生きもの』なのである。
生産量を減らそうと思っても、
生き物から生産されるものであり、
簡単に増減できる性質のものではない。
そこが、わかっていない関係者が多すぎる。

もっと大局的に物事を考えられないのだろか?
目先の利益や成果ではなく。

10年先、20年先の状況を想定して
計画を立ててていたら、
こういう状況を想定していたら、
と思うと悔やまれてならない。

10年ほど前にあった、同様の牛乳廃棄事件を忘れてやしないか?
あの悔しさ、苦しさを、覚えているのは酪農家だけなのか?

よかれ、と思って計画された政策もあるだろう。
しかし、このような結果になる前に
牛乳の余剰は少し前から見えていたのだから
生産量の調整を、
なぜもっとはやくから、酪農家に通知し行わなかったのか?
3年、5年という期間でなら、乳牛の数の調整は可能なはず。
(↑牛の妊娠期間と出産数の調整ができる年月を基に計算)

情報の開示や、情報収集の努力が
各方面の関係者に足りない気がしてならない。

情報を知っている者の危機感も薄かったと思う。

自分だけよければいい という考え方が
ここでも蔓延していたたためなのか?

いまからできることについても考えてほしいと思う。
生乳処分しかないのだろうか?
加工品が倉庫にいっぱいになっていて、生乳加工ができないなら
生乳をそのまま使ったり、戸別配布という政策はとれないのか?
必要とされているところへ、配布したり、
国際援助物資へ転換できないのか?(粉乳なら可能ではないのか?)

関係者に、責任をとってもらいたい。
対策費用を捻出してほしい。

増産のしすぎは、酪農家の自助努力で
ここ何年かで改善する事ができるだろう。
(乳牛数調整、出産制限などで)

早急に改善するには、生産の基となるもの・・・乳牛を減らせばいい。
・・・乳牛を殺せば、すぐに状況は改善される。

しかし、愛情を込めて育てた牛を、「いらないから」といって
ざくざくと殺せるだろうか?
たとえ、補助が出ても気の進む作業ではない。

酪農家自身に提供される情報は多くはない。
「これだけ必要だから作って」という情報は提供される。
でも、
「牛乳が余っているから生産量を減らす努力をしてください」
という情報がキチンと伝えられていたのだろうか?
業界全体で、生産量を減らす努力はしたのだろうか?

前回の反省や教訓が生かされていないと強く感じる。

農業について学んだ者として、憤慨を隠しきれない。
「もっとできることがあったはず」と悔やまれてならない。

あぁぁぁぁ

2006年3月31日
一言。
依存は、自分に自信がない人が陥る罠である。
依存症は、その最たるものである。

依存症には、依存する人と依存させてしまう人がいる。

その両者が依存に気づき、依存について戦う気持ちを持てないと
依存と戦うことは困難だ。

依存する人も依存させる人も、自分に自信のない人だ。
「自分」という存在を否定され続けてきた人だ。
「自分」を認めてもらった、という実感のない人だ。

いつも相手に理不尽な要求をされ、
それに適切に応えないと憤慨され批難されてきた人たちだ。

それにより自信を失い、自尊心を失っていく。

「どんなあなたでも愛している。とても大切だよ。」

そういうことをいってもらったことのない人だ。

損得勘定なんて抜きに
心の底から愛された記憶のない人たちだ。
自分の全てを肯定されたことのない人たちだ。

それによって傷つき、
癒してくれる相手もなく、ただひたすら自分という存在を認めてくれる相手を求め続けている人たちだ。

依存する人は、依存対象に対し、自分への承認を求めている。
認めてもらいたいのだ。つらい気持ちを紛らわしたいのだ。ほんの一瞬でもいいから、安心を得たいのだ。
それが依存へとつながっていく。

依存させてしまう人は、自分が必要とされることで、認めてもらいたいという気持ちを昇華させている。
自分がどんなにひどい目にあっても、自分が必要とされることの方が大事なのだ。
相手に甘えさせることで、自分の存在価値を確認しているのだ。
それが依存させてしまう人の生きる意味につながっている。
命を賭けて、依存させているのだ。

依存は、する者もさせる者も同じ心の痛みを抱えている。

依存させない、しない のが治療方法だ。

しかし

いままでの習慣を断ち切り、それを実行にうつせる者は少ない。

依存しているほうが、依存させているほうが、楽なのだ。
いままでの自分を変えなくてもいいから、楽なのだ。

依存を断ち切るということは、
価値観や生き方、考え方を根底から変えることになる。
それを受け入れ、理解し、実行にうつすのは、難しいことなのだ。

依存させる者だけが、それを実行にうつしても
依存している者のものすごい反撃に会う。

依存している者は
傍若無人に命令でき、
奴隷のように扱える相手を失いたいとは思わないのだ。
その主従関係を変えたいとは思わないのだ。
そのため、いつもより激しい反撃に出る。

ここで齟齬が生じる。

依存する者と 依存させる者の意識の変化の違い。
これが、より激しい修羅場を生む。

・・・これにより、関係の改革を試みる計画が失敗するものも多い。
あきらめて、より一層ひどくなった依存に耐え続けるか
                   そこから逃げるか     である。

DVは逃げるしか解決方法がない
依存は治らない         といわれる由縁である。

依存症もDVも完治するということはない。

しかし、治ることはある。
依存やDVを、自分の意志で継続的に抑えられるようになることが 治る と一般的には使われている。

成功するものは多くない。
途中で挫折するものも少なくない。
取り組むところまでいくものは少ない。



「依存を断ち切ること」



依存を断ち切れなければ、人格異常を起こす可能性が高い。

それでも仮面をかぶり、普通に見えるように生きていける人もいる。
「怒り」をあらわにすること。

それがいままでの私には皆無だった。
上手く「怒り」を相手に伝えられなかった。

イヤだ
したくない
受け入れられない
納得できない

そういう気持ちを伝えることは、
私にとってタブーだった。          いままでは。


だから、相手に、誤解される。

これぐらい いいだろう
これぐらい 大丈夫
なにも感じてないみたいだから、もっとしちゃおぅ♪
  ・
  ・
  ・
なにをしてもおこらないみたいだ。もっと、自分の好きなようにしちゃおう♪

私の相手をする人は、全て皆、そういう経緯を辿り、
私に対して傍若無人に振舞うようになり、
やがて
『わがまま帝王』になる。
大なり小なり、そういう傾向がある。

私は、そういうのは、本当は好きではない。

ないがしろにされて
価値がないかのように扱われて
自分を否定されて
そこに存在していないように扱われるのはイヤだった。

でも、「怒り」をあらわにできない私の周りには、
そういう人が多く集まった。
自己顕示欲が高く、
相手を思い通りに操りたい、
そういう素質を持った人が、私の周りに集まってきていた。
操りやすく、御しやすい、私の周りに集まってきた。
・・・そうでない人もその中にいた。
・・・しかし、私の被虐傾向により、ほとんどが皆と同じ性質を持つに至った。

私の周りに集まった人たちの中に、
ごく少数だが
相手の人格を認めることができ
尊敬と敬意を持って人と付き合うことができる人もいた。

いま、私の周りから、ほとんど全ての友が去った。
自分の思い通りにならないのはけしからん!と
憤慨立腹して、侮蔑と罵倒と共に去っていった。

求めることしかしてこない相手。
自分を受け入れてもらうことしか考えていない相手。
私を人間だと思っていない相手。私を人間扱いしない相手。
自分が好きなときだけ、私を利用し、
私のためといって、自分の意見を押し付てくる相手。
相手の意見に反抗したり、抵抗したら、鬼のように形相を変えて責めてくる相手。

そういう相手は、皆、去りました。

いまいる友は、ちゃんと対等に話ができ、
お互いに尊敬と敬意を持って付き合える相手ばかりです。

ある意味、私にとって不要な人との縁が切れたのだと思います。

友達を失うのは、つらいです。
人と争ったり、ケンカしたりするのは、あまり気持ちよいものではありません。

でも、

寂しいから と 自分の気持ちを抑えたり
もう他に友達になってくれる人はいないかも? という焦燥感から 
自分の感情や気持ちをごまかし、ムリして友達付き合いを続けても、得るものより失うものが多いです。

自分の気持ちを受け止めてくれて
一緒にいて、なんとなく心地よい

そういう相手と友達になり、一緒にいることが
自分にとってのよいことだと思います。

むぅ

2006年3月31日
うるさぁぁぁぁぁぁい!!!!

すきなもん描いて 何が悪いぃぃぃっっっっ!!!!! (叫)

人が描くもんに、いちいちケチをつけるなぁぁぁ!!!!!(叫)

================

なんか、絵を描きにいくたびに、いちゃもん つけてくる人がいる。
何がしたいんだか!

話がしたいなら、そういう話題の振り方はないだろう?!と思う。

人が好きなもの描いて何が悪い?
そんなの人の勝手じゃないの?
強くそう思う。

その人には、以前にもいちゃもんをつけられ、
引越しと就職が何ヶ月か延び、人生設計に多大な損害が出た。
でも、本人はそれについて、なんら責任を取る気はなかった。
ただ、ごめんね、と謝ってきただけだ(怒)

おかげで、年収分ぐらいの損失がでた。
精神の回復も遅れた。
その人は補填する気はない。謝ってくるだけだ。

しかも、何気なくいった台詞だと本人は言い張る。
そんなことになるとは思わなかった、と言う。

通常の状態ならそうだろう。
しかし、人生を新しく踏み出そうとしている相手には、
言っていい台詞ではないし、
なかんずく強制するものでもないと思う。

その人に会うたび、気分が悪くなる。
いつも、神経を逆撫でする台詞しか言わない。

自分の気持ちをはっきりいうことは良いことだ。
でも、相手を不快にさせるのなら、それは適切な台詞とはいえない。
本人にその気がなくても、だ。

これからは、はっきり言い返そうと思う。

どういうつもりなのだ?と。
いちゃもんつけなのか?と。
好きなものを描いて何が悪い?と。
わざわざ人を不快にさせて、ケンカでもしたいのか?と。

そういうつもりじゃないのなら、
人ががんばって描いているものを否定し批判するのは、不愉快にしか感じない。
そういう人と、金輪際話しはしたくない。

そういおうと思う。

反応が激しいかもしれない。
でも、これでいいのだ。
なぜなら、 やんわりとは、もうすでに言っている。
でも、そうしたら更に否定して罵倒してくるだけなのだ。
言い争いに発展しないのは、単に私が一歩引いて接しているからだ。
場の雰囲気を考え、自分の感情を押し殺しているだけなのだ。

相手の気まぐれで、気持ちを掻き乱されては
この先、どんどんつらくなる。

これ以上は、受容できない!というラインを
キチンと相手に伝えないとイイ関係は築けないと思うのだ。

こまってしまうこと

2006年3月27日
     「何気なく聞いただけなんだけどぉ〜」と
     プライベートに関する事を聞かれるのは
      
     私はあんまり好きじゃありません(><)

     特に恋愛とか就職とか人生とか未来とか
    
     迷っている人間に聞いちゃいけない!
     と強く思います。

     なぜなら、そういうことを決めるのは本人自身であるし
    他人に聞かれて「まだ不明」とでも答えようものなら
    「どうして」「なぜ」「なんで○○しないの」
    と、詰問と攻撃の嵐。

    そんなのは いらない。
  
    「どう?」「そう。」

    だけで応える人間なんて、ほとんど皆無。
   
    ・・・他人の不幸は蜜の味、という人を、
   私は軽蔑しますね。
 
   環境にもよるのでしょうが
   温かい 広い 心で 包み込めるやさしさを持った人間と
   私はつきあいたいと思っています。

    かも。

2006年3月27日
ただの言い訳だったのかも。

 理由は全くなく、ただ、もう、きろうとしただけなのかも。

 だから、ちゃんとした理由なんてないのかもな。

 「気に入らない」 それだけなのかもしれないな。


 格下だと思っていた相手が、自分より幸せそう

 それが気にくわない

 ただ それだけなのかも
これは本当です。
遅かれ早かれ、後悔することになります。

自分の直感に反して、行動した場合、
望ましくない結果を招きます。







まさか、、と思いましたが、本当でしたね。。。

追加?

2006年3月22日
メール事件についての続報。

「どうしてそうなってしまったのか、私にもわからない。
そうなった原因はあなたのせいじゃない、と思う。
 他に、(彼女のプライベートで)なにかあった可能性が高い。
 それが、原因だと思う。」

私よりの考え方をしない、まったくの第三者に意見を伺ってみた。
やはり、首を傾げて困惑していた。

・・・やはり、第三者の目からみても、そう見えるんですね?

・・・安心しました。
   私の感覚がおかしいのかな? と考えてもいたので。。。

いまだに、彼女の真意は不明です(苦笑)。

しかし、『いまは連絡を控えたほうがいい』という意見は、どの方も一致している(笑)

確かに、いままでだったら、がんがん謝って仲直りしようとしていただろうなぁ。。
でも、いまは、あんまりそういう気になれない。

何に怒っているのか不明だし
一方的すぎるし
自分勝手にもほどがある、と思うからだ。

確かに、ある程度までは、寛容できるけど、
こうまで理不尽な要求に応え続けるのに 疲れてきた。

振り回されているのは、こっちですよぉ〜(涙)
これ以上、どうすれっちゅうねん?         というのが本音だねぇ。

いまは ただ 彼女のしたことが 悲しい。

こうされた、ということも悲しいが、

こんなことをする人だ ということが、ただただ悲しいのだ。
そんな風になってしまった ということが
意見の相違や仲違いは否めない。

そんなもの怖がっていたら、人とは関われない。

・・・あまり人と接するのは巧くないほうですが・・・(苦笑)


自分は何がしたかったのか、について考える。



自己洞察 し 分析 し 解析 し 原因を探り 対処を見い出す。



それが目的であったような気がする。


いまの自分の気持ちを綴り、読み返すことにより
体調等を知り、現状に対処する、そのためではなかったか?


初心に還り、自分のために日記を書こうと思う。

2006年3月17日
秘密のみ。

1 2 3 4 5 6 7 8 >

 

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索